「日本人選手 ベスト尽くして」=1964年東京五輪大会公式ポスターモデル 岩本光司さん
大きく両腕を広げ、水面を舞う。視線は鋭く、狙うはただゴールだけ…。世界で7万枚が配られた1964年東京五輪の公式ポスターに登場した京都市出身のスイマー、岩本光司さん(77)は今も泳ぎ続け、マスターズの世界記録を更新している。代表には落選したが、水泳とともに歩んできた人生。1年後に迫った2020年東京五輪に「日本人選手には最高のパフォーマンスをみせてほしい」と期待を寄せる。
(産経新聞大阪版夕刊2019年7月24日掲載)

フジヤマのトビウオに憧れて
「アジアで初めて開かれる五輪の公式ポスターのモデルになれたのは奇跡のよう。素直にうれしかった」と岩本さん。撮影は、東京五輪開催前年の昭和38年1月、東京体育館(東京都渋谷区)の屋内プールで行われ、岩本さんを含め、早稲田大水泳部のバタフライ選手3人が参加した。岩本さんは20歳だった。
プールの中には高さ約2㍍の撮影用やぐら。約70灯のストロボの光に照らされながら、カメラに向かって20本以上を全力で泳いだ。夕方に始まった撮影は真夜中まで続き、第3号ポスターに採用されたとの連絡は数カ月後に届いたという。
戦後まもない水泳界で数々の世界記録を樹立した「フジヤマのトビウオ」こと故古橋広之進さんらに憧れ、独学で水泳を始め、小学生のときには作文に「五輪選手になりたい」と書いた。京都市立堀川高(同市中京区)では校内にプールがなく、指導者もいなかったが、水泳部員全員で市営プールに通ったという。

マスターズ大会で次々世界新
17歳のときに東京五輪の開催が決まり、小学生時代の夢を実現させようと、トップ選手が多く集まる早稲田大に進学した。アジア大会で銀メダルを獲得するなど夢はすぐそこにあるように思われたが、39年7月、代表選考を兼ねた日本選手権で結果を残せず、代表に落選。「普段通りに泳いだつもりだったが、力が発揮できなかった」。伸び悩みの苦しみもあり、大学卒業と同時に一線から身を引くことを決めた。
しかし、46歳のとき、友人に勧められて再び競泳の世界に。50歳を機にマスターズの大会にも出場するようになり、次々と世界記録を更新、その数は61回に上る。「青春時代が帰ってきたよう。100回更新することが人生の目標」と目を輝かせる。
「水泳とともに歩んだ人生、これからも水泳とともにありたい」と岩本さん。1年後の東京五輪・パラリンピックに向けて、「どの競技もメダルの可能性があり、今から楽しみ。出場する日本人選手には、自国開催の大舞台でベストを出し尽くしてほしい」と声を弾ませた。