翻弄された日々に浮かぶポエジー

2019/12/05

市川愛著 詩集『アルツハイマー氏』

先輩の告別式から帰宅した夫は、ショルダーバッグを精進落としのビアガーデンに忘れてきたらしい。夫の言葉を頼りにいくつかの店を尋ね歩くが、何かがおかしい。

「忘れ物を一緒に探し歩いたあの人は 誰だったのだろう すでに私の夫であって夫ではなかったのだ あの時私たちを引張り回していたものの正体を 私はまだ知らなかった (略)/あの日から始まった/アルツハイマー氏との困難な道行き」(「アルツハイマー氏が来てしまった日」)

『アルツハイマー氏』(市川愛著、土曜美術社出版販売)は、国語教師だった夫がアルツハイマー病と診断されてからの長い日々を詠んだ詩集だ。現代詩の芥川賞といわれるH氏賞候補作(2018年)となった。

著者の「アルツハイマー氏」は、ひたすら歩く人だったようだ。映画館に妻を置き去りにして遠路徒歩で帰宅する。食事の途中で立ち上がり、無言でリビングを往復する。一昼夜歩き回り行方知れずになる。

母の死なども重なり、「狂雲ただよい/禍事が潜む現実」を、「ソレガドウシタ」という呪文を武器に切り抜けてきた著者は、ふとした場面で他人からの優しい言葉に打たれ、それまで流せなかった涙を、とめどなく流し続ける(「私、まちがってませんよね。」)。

夫の施設入所後、散りかかる桜の中を歩いた幸せな面会(デート)を思い返す夜、両肩に音もなく降りつもる悲しみに気付く。「今日一日 夫の口から/私に散りかかる/ひとひらの言の葉も無かった」と(「音もなく降りつもる」)。

「病魔が/言葉を刈り尽してしまって/地平線の彼方まで 落穂すら見当たらない/認知症の夫の空間に/呆然と佇む私に/荒野からというには/優しい風が吹いてくるのは/言葉にならない夫の声が/微風になって/いつくしみ合ったとはいえない昔を懐しみ/先行きの知れない明日を/愛おしんでいるからなのだと」(「あなたの声」)

あとがきで著者はこう記している。

「何かがあった、私たちの力では制御できない病いに翻弄された日々の中にも。晴れやかでない人生の流れにも、ポエジーの浮かぶ瀬はあったのだ」

詩の言葉によって、悲しみも苦しみも純化され、どんな形にせよ人生を全うしなければならない人間存在そのものの輝きとなって、そっと差し出される。

「アルツハイマー氏」の後ろで、言葉にならない声に優しさをのせて吹き渡らせる「夫」と道連れの旅路を、美しいと感じてしまうのは残酷だろうか。(永井優子)

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