本人本位のサービスを目指して
JR新宿駅から1時間余り。中央線、青梅線をへて河辺(かべ)駅で下車し、東京都青梅市を拠点に地域に根差した介護事業を行う井上信太郎さん(51)に会いに行った。この道に入って約30年。福祉、介護一筋ではなく、途中に介護の世界から離れたこともあった井上さんだが、今は、高齢者が通いや泊まり、訪問も利用できる「小規模多機能型居宅介護(小多機)」を中心に、複数の施設や地域のふれあいの場として喫茶店も経営する。介護の仕事について熱く語ってくれた。

◇原点は初体験の「ありがとう」
井上さんがこの道に入ったのは、今年1月に亡くなった母、美都子(みつこ)さんの影響が大きい。
「母は青梅を拠点に、障がい者の外出支援などを半ばボランティアのようにやっていました。私が高校2年、17歳のときに、特別養護老人ホームにコーラスの慰問に行く際、『手伝いに来ないか』と言われて一緒に行ったのです…」
それまで、井上さん自身が持っていた福祉や介護の仕事のイメージは、「ださい、恥ずかしい、カッコ悪いというもの」で、「将来はコンピューター関係の専門学校に進もうと思っていた」という。
高校生のころは、欠席や遅刻も多く「周囲に迷惑をかけるような、素行の悪い生徒だった」という井上さん。
母親に連れられて行ったその施設で、お茶出しの手伝いをした際に、「高齢で認知症のある方もいたのですが、『ありがとう』と言われたのです。そんなことを言われたのは、おそらく私にとって初めてのこと。人の役に立っているという気持ちになり、『福祉の仕事も悪くないんじゃないか』と思いました」という。
それで、進路先を都内の福祉専門学校に変え、介護福祉士の資格を目指した。
「介護の勉強は面白かったですよ。ただ、先生の中には人を病気や疾患だけで見るような教え方もありました。確かに、認知症の人は暴れたり、暴言を吐いたりすることもあります。でも、それは施設の環境や職員の対応が原因だったりすることもある。実習先でそういうことを実感する中で、先生にたてつくようなこともあり…。目立つ生徒だったと思います」と井上さんは笑いながら振り返る。

20代のころ最初に勤務した介護施設では熱心な余り、上司と衝突することもあった。
「トップと介護についての理念が合わないことがあったし、私自身が燃え尽きたようになってしまった。妻は当時臨月で、『このままでは父親になれない…』との思いで飛び出しました」
元々好きだった車関係の仕事をやろう、と大型免許を取得し、5年間トラックドライバーをしていた。しかし、そこで再び母の言葉を機に進路を変えることになる。
「介護保険制度が始まるから一緒にやらないか、私たちにも介護の会社が作れるのよ、と。母と2000年に『有限会社心のひろば』を始め、再び介護の仕事に就くことになりました」
経験も資金もない中、奔走する美都子さんの姿を目の当たりにした。「母はいつも『私たちは高齢者の立場を代弁することが努めだ』と言っていました」と話す。
井上さんは上から教えられたり命じられたりして行動するというよりも、自分で考えて行動するタイプ。だから、福祉や介護の仕事をポジティブにとらえることができたのだろう。

◇効率よりチームで乗り越える
現在、ケアマネジメント事業所(居宅介護支援)や訪問介護を行う「ここひろ青梅」(青梅市)、地域ケアサポート館「福わ家(ふくわうち)」(青梅市)、同「福ら笑(ふらわー)」(羽村市)の3拠点と、「maru.+BEANS CAFE(マルドットプラスビーンズカフェ)」(青梅市)も経営。正職員ほかも含めて約120人のスタッフを擁する。
「近年、介護職の現場では効率が求められ、生産性を言う人がいます。それはもちろん分かりますが、支援というのは地道な仕事で、じっくりかかわれる人材が必要。生産性を求めすぎると殺伐とした雰囲気になる。(スタッフも)能力の高い人にだけ焦点を当てるのでなく、チームで乗り越えていくことが大事。チームケアに力をいれています」

運営する「心のひろば」の理念は、「あたたかい心」「おもいやりの心」「やさしい心」―である。井上さんは、「つまり、『(利用者)本人のためのサービスを作ること』が、その理念を実践していくこと」という。
介護職に就こうと思う人たちには、「なぜこの仕事を選んだか、ということを忘れないでほしい。本人本位でないサービスを提供してしまい、相手を傷つけ、自分も傷つき離職してしまう人がいる。ただ、この仕事を目指したときの夢と希望を持っていれば、思いはかないます」とエールを送る。